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国指定史跡 岩屋古墳現地説明会資料
平成23年11月20日(日) 13:00~15:00
主催 栄町教育委員会 財団法人印旛郡市文化財センター
共催 千葉県立房総のむら
岩屋古墳(龍角寺105号墳)(1)は、印旛沼の東岸2km、印旛郡栄町龍角寺字池下1601ほかに所在し、標高30m程の細尾根の台地上に展開する龍角寺古墳群の南端に位置しています。 当古墳の所在する印旛沼東岸域は、利根川・根木名川・江川に囲まれ、古墳時代後期から終末期にかけてつくられた群集墳と呼ばれる古墳の密集地域です。 台地上には北から竜台古墳群・南羽鳥古墳群・龍角寺古墳群・上福田古墳群・大竹古墳群・公津原古墳群・台方古墳群・北須賀勝福寺古墳群など総数370基に及ぶ古墳群が展開し、 下総地域では最大、全国でも有数の大古墳群を形成しています。 また、北西部には白鳳期(7世紀後半)に創建されたとされる龍角寺(2)や、律令制下における埴生郡衙跡と考えられる大畑Ⅰ-Ⅳ遺跡(3)などが所在しており、 当地域がその後の時代においても中心的な役割を果たしていたことが確認されています。 岩屋古墳は、古墳時代から古代へと大きく社会が変化していく、ちょうど画期にあたる時期につくられた非常に重要な古墳であると考えられます。
岩屋古墳について
岩屋古墳(龍角寺105号墳)は、昭和16年に国指定史跡に登録された古墳です。
一辺は78mを測り、周堤帯の外側まで含めると105m、高さ13.2mになる非常に大型の方墳です。規模は奈良県桝山古墳に次ぐ全国第2位の方墳ですが、7世紀(古墳時代終末期)につくられたものとしては全国で最大です。墳丘は三段築成をとっており、墳丘の東・西・北側には周堤帯が巡っています。南側は前庭部からすぐに崖線となり、崖線部には舌状張出地形と呼ばれる斜面地形が確認されています。
南側には東西2室の石室が開口しており、どちらも単室構造の切石積横穴式石室が採用されています。今回調査が行われた東側石室は奥行き約7m、幅約2m、高さ3.5mを、西側石室は奥行き約5m、幅1.7m、高さ約2.5mをそれぞれ測ります。石室は木下貝層で採取される貝化石を含む軟質砂岩を主体としますが、天井石の一部に雲母片岩(筑波山系片岩)が使用されています。
古墳の築造年代については、6世紀末~7世紀初頭に築造された浅間山古墳の後に造られたと考えられており、7世紀前半~中頃と推定されています。
調査の成果
岩屋古墳(龍角寺105号墳)は、昭和16年に国指定史跡に登録された古墳です。
一辺は78mを測り、周堤帯の外側まで含めると105m、高さ13.2mになる非常に大型の方墳です。規模は奈良県桝山古墳に次ぐ全国第2位の方墳ですが、7世紀(古墳時代終末期)につくられたものとしては全国で最大です。墳丘は三段築成をとっており、墳丘の東・西・北側には周堤帯が巡っています。南側は前庭部からすぐに崖線となり、崖線部には舌状張出地形と呼ばれる斜面地形が確認されています。
南側には東西2室の石室が開口しており、どちらも単室構造の切石積横穴式石室が採用されています。今回調査が行われた東側石室は奥行き約7m、幅約2m、高さ3.5mを、西側石室は奥行き約5m、幅1.7m、高さ約2.5mをそれぞれ測ります。石室は木下貝層で採取される貝化石を含む軟質砂岩を主体としますが、天井石の一部に雲母片岩(筑波山系片岩)が使用されています。
古墳の築造年代については、6世紀末~7世紀初頭に築造された浅間山古墳の後に造られたと考えられており、7世紀前半~中頃と推定されています。
龍角寺古墳群と岩屋古墳
龍角寺古墳群は総数114基を数える当地域でも最大級の古墳群であり、うち93基が国の指定を受けています。 構成は前方後円墳37基・円墳71基・方墳6基となっており、他の古墳群に比べ前方後円墳の数が多い点が特徴となります。 古墳群は後期~終末期(6~7世紀)にかけて築造され、岩屋古墳を含む終末期の方墳は古墳群の東端部に集中し、根木名川へ流れる支谷の最奥部に位置しています。 発掘調査の行われた主な古墳には、二重周溝の円墳を改変した造り出し付円墳であり、武人や馬など多数の形象埴輪を出土した101号墳、全長78mを測り、 県内最後の前方後円墳と考えられる浅間山古墳などがあります。 当古墳群は、古墳時代の最終段階において突如盛行した古墳群であり、直後の7世紀後半に創建された龍角寺や律令制下における埴生郡衙との強い関連が想定されます。 現在では、平城宮跡から出土した木簡により、奈良時代の埴生郡司が大生部氏であったことが明らかになり、龍角寺の建立や古墳群の造営を行った印波国造も 同様に大生部一族であった可能性が高いと考えられています。
現地説明会の様子