第8次調査
(平成15(2003)年8月1日〜29日)
第8次調査区は、第7次調査で見つかった2基の大きな柱穴の性格を探ることを主な目的として実施した。また、第6次調査で推定された西側盛土の限界部分まで調査区を拡張して遺構の分布を確認した。
表土下20センチメートルほどは第7次調査区と同様に学校建設の破壊を受けていたが、その下には縄文時代の遺構が良好に残っており、約600平方メートルを掘り下げた。
調査区の北西から南東に向かって帯状の空白部分が認められ、その両側から遺構が検出された。遺構空白部分を北西側に追いかけていくと谷に至ることから、谷から集落へ通じる「縄文の道」と推定される。
北側で検出されたピット群は住居の柱穴と考えられる。その中で、深さ180センチメートルにもなる深い柱穴(10,11号土坑)が2基確認された。第7次調査区で発見された柱穴と規模・形状が酷似し、一定の間隔に位置していること、出土する土器片も類似することから、全体で建造物を構成する柱穴と推定される。
南側で発見された土坑群は、貯蔵穴と墓穴と考えられ、複数が重複している。南西側の土坑は貯蔵穴と推定される円筒形の大型土坑で、底面中央に小さなピットが掘り込まれる特徴がある。これらはどれも深く掘り込まれているが、中でも9号土坑は深さ3メートル近くにもなり、中ほどから後期末葉の瓢形(ひさごがた)の注口(ちゅうこう)土器がほぼ完形で出土した。
一方、北西側に向かうにつれて楕円形の浅い土坑が目立つようになる。これらは「縄文の道」に沿って一列に並ぶように配置されていること、完形の浅鉢型土器などが出土することから、墓と推定される。
「縄文の道」は南側でも発見されていることから、谷から集落へ通じる道は何本かあり、沿道に墓を配置する風習があったと推測できる。こうした事例は中期の青森県三内丸山遺跡にあるが、それ以外では類例が見当たらない。後・晩期では初出の事例である。
面的な調査により、沿道に墓を連ねた「縄文の道」をはさんで住居群と土坑群が展開するという遺跡構造の一端が明らかになった。同時に、遺構が造られるのは盛土部分周辺と考えられることから、「縄文の道」の南北にそれぞれ独立した盛土があった可能性が高くなった。失われた盛土を復元する手掛りを得ることができたのは今回の調査の大きな成果である。
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