船形手黒遺跡現地説明会資料

平成20年11月15日 13:00~15:00
主催 成田市教育委員会 印旛郡市文化財センター
後援 成田市文化財保護協会

  船形手黒遺跡(1)は印旛沼の東岸1.5km、成田市台方字鶴巻に所在する遺跡です。印旛沼の支流である江川によって樹枝状に開析された、標高34mの台地上に位置しています。その豊富な水資源を背景に古来から多くの人々が生活を営んできました。今回の調査は赤坂台方線の道路整備事業に伴って実施され、これまでの調査で、次のページで述べる船形手黒1号墳を初めとして、奈良・平安時代の住居跡、掘立柱建物跡などが見つかっています。
 本遺跡の周辺には古墳時代の印旛国造、伊都許利命いつこりのみことの墓と伝えられる公津原39号墳(2)と 奈良・平安時代には印旛郡域で唯一の式内社である麻賀多神社の奥宮(2)が隣接し、谷を挟んだ現在の「はなのき台」には、古墳時代から奈良・平安時代にかけて679軒の住居跡が 検出された台方下平だいかたげべI・II遺跡(3)があり、本遺跡と関係の深い遺跡が多く所在しています。 本遺跡も、印旛沼東岸の中心的な地域において重要な役割を果たしていた場所のひとつであると考えられます。

船形手黒遺跡関連年表

船形手黒遺跡位置図および地形図


古墳の概要

 船形手黒1号墳(仮)は、墳丘の大きさ約25m、高さ2.2mの円墳です。古墳の周りには最大で幅5m、深さ80cmの周溝が巡っていますが、 斜面に接している南側と西側にはつくられていません。古墳の墳頂部からは、穴を掘って直接木製の棺を納めた(木棺直葬もっかんじきそう)主体部が 検出されました。
主体部からは直刀、鉄斧などのほかに、滑石製の石枕と、それに伴う立花が出土しました。主体部の外側からは銅鏡も見つかっており、 この古墳に埋葬された人物が複数存在した可能性を示唆しています。
出土した遺物から、古墳は中期後半(5世紀後半)の可能性が高いと考えられています。 副葬品から推測すると、被葬者は比較的大きな権力を持つ人物であったことがうかがえますが、現時点では詳細はわかっていません。 いったいどのような人物が埋葬されていたのでしょうか。今後の調査および整理の成果が期待されます。

船形手黒遺跡1号墳

船形手黒遺跡遺構配置図


石枕(常総型石枕) 石枕
古墳の埋葬施設に置かれた死者の枕です。滑石などの軟らかい石を加工して頭部を納めるくぼみを作り出しています。周囲を有段に削り出し、 立花を装着する孔を穿ったものが当地方では一般的に見られます。
主に千葉県北部から茨城県南部にかけて集中的に分布し、古墳時代中期前半から後期までの比較的短い期間のみ副葬されました。 本遺物は馬蹄形で、縦29.2cm、横34.9cm、高さ8.0cmを測り、2段の高縁たかぶちと 10個の立花孔、1個の副孔を有しています。

石枕(常総型石枕) 立花
2個、もしくは4個の勾玉を背中合わせに倒立させて結合したような形をしており、石枕の孔に差し込む軸に取り付けたもです。 本古墳では現時点で4本出土し、いずれも滑石製です。

銅鏡
銅鏡
 千葉県では100面あまりが確認されています。今回出土した鏡は直径約7.0cmであり、詳細はまだわかっていませんが、 小型の仿製鏡ぼうせいきょう(中国の鏡を模して日本で作られたもの)であると考えられます。

直刀
直刀
刀のうちでも刀身に反りのないまっすぐなものです。古墳時代前期には主に両刃の剣が副葬されますが、 中期に入ると次第に刀や弓矢へと様相が変化していきます。

鉄斧
鉄斧
  両端を内側に折り曲げて空洞をつくり、中に木の柄を差し込んで使用しました。弥生時代に大陸より伝わり、古墳時代には副葬品として用いられることが多いものです。


古墳の位置づけ

 本古墳は、成田ニュータウン地区を中心として展開する公津原古墳群に含まれています。古墳群は計3支群にわけられ、南から瓢塚ひさごづか古墳群、天王てんのう船塚ふなづか古墳群、八代台やつしろだい古墳群となっています。そのうちの天王・船塚古墳群では前方後円墳4基、円墳33基、方墳19基、不定1基が確認されており、本古墳もここに含まれます。古墳群は4世紀前半に築造が開始され、終末期まで古墳の造営が継続されますが、6~7世紀のものが最も多くなっています。遺跡群でも大型の古墳、天王塚古墳・船塚古墳・石塚古墳などは6世紀代の築造と考えられており、本古墳はそれより少し前、地域勢力が最盛を迎える前の時代の首長の墓であると思われます。
 本古墳と同様に石枕を検出した瓢塚32号墳(大塚古墳)も中期後半の築造とされていますが、出土した石枕は形状がやや異なります。出土位置が明確な石枕の検出は、公津原古墳群では今回の例を含めて2例のみであり、型式の差は時間的な差とは限らないため単純な比較はできないのですが、頸部の受け部がくびれるものが古く、ひらくものが新しい傾向があることから、本古墳の築造は中期後半よりもやや古くなる可能性が考えられます。
古墳分布図  最後に、これまでも幾度か指摘されてきたように、本古墳や伊都許利命いつこりのみこと墳墓と伝えられる39号墳は、古墳群の古墳集中地区からはやや離れた場所に位置しています。今回の調査を実施するにあたり、さらに印旛沼に近い場所から複数の古墳の存在が確認されました。また、本古墳が直接印旛沼に注ぐ位置にあるのに対し、他の古墳は利根川へと注ぐ小橋川の谷津に面した台地上に築かれています。これらのことから、本古墳は、公津原古墳群とはやや異なる特徴を持ち、さらにある程度のまとまりを持った古墳群であった可能性が考えられます。船塚・天王塚古墳を造営した集団とは異なる背景を持った集団が存在したのでしょうか。今後の課題として検討していく必要があると思われます。
船形手黒遺跡1号墳

上:瓢塚32号墳出土石枕
右:公津原古墳群相関図(千葉県の歴史 資料編 考古2から改変)


現地説明会の様子
現地説明会1~2

現地説明会3

現地説明会4