船形手黒1号墳(仮)は、墳丘の大きさ約25m、高さ2.2mの円墳です。古墳の周りには最大で幅5m、深さ80cmの周溝が巡っていますが、
斜面に接している南側と西側にはつくられていません。古墳の墳頂部からは、穴を掘って直接木製の棺を納めた(木棺直葬)主体部が
検出されました。
主体部からは直刀、鉄斧などのほかに、滑石製の石枕と、それに伴う立花が出土しました。主体部の外側からは銅鏡も見つかっており、
この古墳に埋葬された人物が複数存在した可能性を示唆しています。
出土した遺物から、古墳は中期後半(5世紀後半)の可能性が高いと考えられています。
副葬品から推測すると、被葬者は比較的大きな権力を持つ人物であったことがうかがえますが、現時点では詳細はわかっていません。
いったいどのような人物が埋葬されていたのでしょうか。今後の調査および整理の成果が期待されます。
本古墳は、成田ニュータウン地区を中心として展開する公津原古墳群に含まれています。古墳群は計3支群にわけられ、南から
瓢塚古墳群、
天王・
船塚古墳群、
八代台古墳群となっています。そのうちの天王・船塚古墳群では前方後円墳4基、円墳33基、方墳19基、不定1基が確認されており、本古墳もここに含まれます。古墳群は4世紀前半に築造が開始され、終末期まで古墳の造営が継続されますが、6~7世紀のものが最も多くなっています。遺跡群でも大型の古墳、天王塚古墳・船塚古墳・石塚古墳などは6世紀代の築造と考えられており、本古墳はそれより少し前、地域勢力が最盛を迎える前の時代の首長の墓であると思われます。
本古墳と同様に石枕を検出した瓢塚32号墳(大塚古墳)も中期後半の築造とされていますが、出土した石枕は形状がやや異なります。出土位置が明確な石枕の検出は、公津原古墳群では今回の例を含めて2例のみであり、型式の差は時間的な差とは限らないため単純な比較はできないのですが、頸部の受け部がくびれるものが古く、ひらくものが新しい傾向があることから、本古墳の築造は中期後半よりもやや古くなる可能性が考えられます。
最後に、これまでも幾度か指摘されてきたように、本古墳や
伊都許利命墳墓と伝えられる39号墳は、古墳群の古墳集中地区からはやや離れた場所に位置しています。今回の調査を実施するにあたり、さらに印旛沼に近い場所から複数の古墳の存在が確認されました。また、本古墳が直接印旛沼に注ぐ位置にあるのに対し、他の古墳は利根川へと注ぐ小橋川の谷津に面した台地上に築かれています。これらのことから、本古墳は、公津原古墳群とはやや異なる特徴を持ち、さらにある程度のまとまりを持った古墳群であった可能性が考えられます。船塚・天王塚古墳を造営した集団とは異なる背景を持った集団が存在したのでしょうか。今後の課題として検討していく必要があると思われます。