東作ひがしさく遺跡現地説明会資料

平成23年3月26日
主催 四街道市教育委員会
公旛郡市文化財センター

 東作遺跡は、鹿島川及びその支流によって樹枝状に複雑に開析された標高約30mの台地上に占地します。中台城跡として遺跡分布地図などに記載されている本遺跡は、中世から近世にかけて利用されていた城跡と考えられており、周辺遺跡では、当センターで発掘調査を行った和良比堀込城跡を含め、鹿島川流域には、多くの中世城館跡が確認されています。
 本遺跡の概要は、今回の調査以前に「縄張り図」が作られており、その図からは本遺跡全体の大まかな景観を知ることができます。中心部に回る「土塁」は、約50×40m程のいびつな多角形をしており、「主郭」と呼ばれています。そして、その周囲には、外敵からの攻撃に対して備えられた防御施設としての土塁と「堀」が二重に廻らされています。なお、この土塁と堀はセットとして一般的に捉えられている遺構です。今回発掘調査を行ったのは、主郭周囲の部分であり、土塁と堀が含まれる面積2,495m2の範囲になります。
 調査の結果、最も古い時代では縄文時代の遺構・遺物が確認されましたが、主に中世から近世を中心とする遺跡であることがわかりました。遺構・遺物の内容としては、中世に該当するものとして土坑、火葬土坑、地下式坑、掘立建物跡、堀・土塁、台地整形区画などの遺構が確認され、遺物では、土師質土器、陶磁器、古銭、五輪塔、貝などがあります。また、近世の遺構では土坑、炭窯などが確認され、遺物では、土師質土器、陶磁器、古銭、石臼などがありました。
 本遺跡では、特色は主に3つに分けられます。まず、台地整形区画内の遺構です。この区画内の、22・166・ 167・171号土坑からは、古銭(永楽通宝)やかわらけが出土しました。これらの土坑は、方形の特徴がみられることから土坑墓として捉えられるものです。また、9・15・16 号土坑は、葬送施設と関係のある火葬土坑です。いずれも中世の土坑で台地整形区画内に集中していることから墓域であった可能性が考えられます。
 次に、1号堀です。調査以前から堀のくぼみと土塁の高まりが平行した状態で確認されていた遺構です。 堀の中央付近には、地下式坑と呼ばれる深さ約3m以上ある大穴がありました。この地下式坑は、堀より前の時期に作られたもので、貯蔵施設あるいは埋葬施設と考えられていますが、未だ用途は定かではありません。中世の遺構で、遺物としては常滑産甕・平碗が出土しています。1号堀は、この地下式坑を埋めて作られていたことがわかっています。そして、この堀の特徴は、地下式坑を境として南北で堀底の掘り方が変化していることであり、北側では堀底が間隔をあけて掘られ障壁が設けられているのに対し、南側では障壁がありません。残念なことに、地下式坑によってこの 2つの形態の変化の境目を確認することはできませんでしたが、現時点において同じ時期に作られた一連のものとして考えられます。本遺跡における防御施設の特色の一つといえます。なお、北側の掘り方を畝掘あるいは障子掘と呼ばれています。また、上面が開いて底部が狭くなる堀の掘り方を薬研掘といわれています。遺物は、中・近世陶磁器を中心として、特に近世の遺物が多く出土しています。
 最後に、2号堀とその周辺の遺構です。2号堀もまた、1号堀と似た堀底の掘り方をしており、東から西になるにつれて堀底の形態が変化しています。ただし、2号堀の西側は、1号堀に伴う土塁の下に潜る状況となっていました。したがって、1号堀と2号堀とでは、作られた時期が異なることが調査からわかりました。この改築には、当時の何らかの社会背景に伴うものであったのかもしれません。また、2号堀の北側では堀立建物跡の痕跡が確認されました。主な遺物では、2号堀から五輪塔の一部である空風輪・地輪、3号堀から火輪・地輪・青磁などが見つかり、いずれも中世の時代です。
 以上のことが、本遺跡を捉える手掛かりと考えられます。そして、遺構の構築・配置関係や現時点での遺物の見解を総合すると、中世から近世の間のなかでもいくつかの時期にまたがって利用されていた遺跡であることがわかりました。しかし、今回の遺構と中心の主郭との関係やこの遺跡の当時の位置づけなど、まだまだ多くの疑問が残されます。これら詳細は、今後の整理作業と情報収集を通して把握すべき課題です。


東作ひがしさく遺跡位置図

東作遺跡位置図


東作ひがしさく遺構配置図 東作遺跡遺構配置図

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