井野長割遺跡

−縄文時代のスペースデザイン、「円環の秩序」−

主任調査研究員 小倉和重

遺跡の立地と周辺の遺跡
 遺跡は印旛郡の南岸、標高27m前後の大地上に位置している。遺跡の西側は小市谷を挟んで八千代市と接しており、東側には手繰川が流れている。遺跡が所在する台地は、手繰川や印旛沼から入り込む樹枝状の谷により複雑に侵食され、半島状に突き出した形状をなす。本遺跡と同じ縄文時代後期から晩期(今からおよそ3千5百年から3千年前)の大規模集落は、印旛沼沿岸域、鹿島川流域、手繰側流域に分布している。なかでも著名な吉見台遺跡(鹿島川下流域)とは直線距離にして4km、宮内井戸作遺跡(同中流域)とは約13kmの位置関係にある。
調査の経緯
 井野長割遺跡の調査は、昭和44年の市立井野小学校の建設工事中に大量の土器が出土したことに端を発する。3度行われた調査のうち昭和48年に行われた第3次調査では、「マウンド状遺構」(概報の用語に基づく)の調査が行われ、縄文晩期前半以降の構築であることを示唆した。また、マウンド状遺構の下から、後期後葉(加曽利B式後半期)の住居跡が1軒検出されたほか、同時期の住居跡1軒、後期前葉(堀之内式期)の住居跡1軒、マウンドの裾部からは後期後葉を主体とする土器塚が検出されている。
 今回の調査は、井野東土地区画整理事業に伴い平成13年2月から6月までの間断続的に実施した。調査対象面積は44,974平方メートルである。
調査成果
 今回の調査では、住居跡や土器塚、貝塚などが検出されたが、本遺跡を最も特徴付ける盛土遺構について概略を述べておきたい。盛土遺構は4つのマウンドと斜面の埋め立てにより構成されている。マウンドは、昭和48年の調査により消滅した1基を加えると5基となる。
 盛土の範囲は、その外縁を遺跡東側の谷部に面する台地縁辺とし、谷に沿うように(一部では谷を埋め立てて)形成されている。
 また、マウンド1の北側裾端部において埋没谷を確認した。この谷が自然堆積によりある程度埋没した後、縄文時代に谷地形を埋めるようなかたちで土が堆積している。その結果、マウンド1部分においては東側谷部に向けて平坦面が5mほど増加したことになる。旧地表面(縄文時代の谷地表面)直上の堆積土には土器片を多く含んでいる。晩期前半の盛土(黄褐色ローム土)はこの埋め立て土を基盤としている。この黄褐色ローム土の堆積は標高17m付近まで認められるが、地形の傾斜に合わせて堆積している。
 黄褐色ローム土からは、晩期前葉の土器を主体として後期後葉の土器も出土している。盛土の形成は、後期後葉から長期間行われていたと考えられる。なお、標高17m付近の最下層からは中期末や後期前葉の土器片もわずかに出土した。
問題点
 井野長割遺跡では盛土遺構が最終的に円環状の盛土景観を形成しているが、その用途は未だ不明である。特殊遺物の出土が多いことから、葬送儀礼に加え、様々な儀式のほとんどが執り行われた多目的祭祀場だったのではないか、という意見がある。
 もう一つは、この大規模な盛土行為を推し量るに、なぜ、そこまでして盛り上げなくてはならなかったのか、何故に「盛る」行為が発生するに至ったのか、という問題が残る。多大な労力と時間を投入して環状に構築された盛土遺構の性格を知るには、縄文文化の様々な場面に見られる「円環の秩序」と切り離して考えることはできないであろう。盛土遺構も縄文人の「円環の秩序」の一つの表れと考えている。

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